道具は、その道理や技術を体現するために存在し、進化していくものである。金鎚もまた然り。
わが国では古墳の木棺に釘が用いられたことから古代より金鎚が使われていたと考えられる。
しかし、鉄資源に乏しく、木組みが発展したため建築に釘が使われることはそう多くなく
金鎚は大工ではなく、主に石工の道具として歩んできた。
やがて江戸時代後期になると、たたら製鉄の進化。
鉄が庶民にも入手しやすくなってからは作業効率の良い金鎚が木槌に取って代わられる。
その後明治になって近代製鉄が幕を開け洋釘が普及するとともに金鎚は大工道具の表舞台に立つ。
さらに大工の繊細な感覚と、高い技術に研ぎ澄まされ屋根屋金鎚、瓦屋金鎚、箱屋金鎚など
形態も用途や地域ごと細分化されていった。
金鎚は、型枠の技術にも寄り添い進化した。本格的に型枠を用いた建築方法は、戦後まもなくアメリカから渡来した。
その際、型枠を組んだりばらしたりする道具として、リッピングハンマーもアメリカからやって来た。
このリッピングハンマー、重厚で首が長く、そして重い。筋骨隆々のアメリカ人の職人はそれをいとも軽々と扱うが
もともと体格が劣り、さらに戦中戦後の食糧難で痩せこけた日本の職人には重すぎて使いこなせる代物ではなかった。
でも、仕事に妥協はできない ─ そんな職人の手と魂が、新たな道具を求めた。
彼らは熟考して、ひとつの伝統的な金鎚に着目する。
当時の型枠は現在のような合板のコンパネではなく、幅10センチの杉や松のバラ板を組み合わせていた。
段ボールが普及していなかった当時、リンゴ箱やミカン箱も同じような板材で盛んに製造されていた。
その技術を支える箱屋金鎚なら軽くて取り回しも良い。そこへ型枠に求められる機能を付加し、型枠金鎚は誕生した。
型枠金鎚は瞬く間に全国の型枠職人に愛用され播州三木など全国で生産されたが中でも四国の「丸伊」発祥の型枠金鎚は
クオリティが高く、特に広島の名人が手づくりしたものはプレミアがあったという。
やがてその形態を受け継いだ越後三条の金物屋が「角伊」と銘打ち製造していたが、10年ほど前に途絶してしまった。
一度は途絶してしまった究極の型枠金鎚の系譜がいま、不死鳥の如く甦る。
「丸伊」から「角伊」へと受け継がれたそのパーフェクトな意匠を完全に復元、
さらに品質をブラッシュアップした究極の型枠金鎚「型枠魂」は、まさに「用美一如」の体現だ。
受け継がれたフォルムは軽さや取り回しの良さ、そして使い心地まで最上の感覚を追い求め、
無駄な部分を薄紙を剥がすレベルにまで徹底的に削ぎ落とし、必要な部分だけを残している。
しかし、軽さは強さ、ことさら耐久性と反比例するのが宿命。この命題への答えは、素材と鍛造にある。
日本製の良質な鉄を用いて、その目をみて方向を決めること。
そしてそれを一つひとつ鍛造、さらに焼き入れを施して粘りを生むこと。
この技と手間により生まれる鋼の確かな強靱さと程よい柔軟さが道具の生命でもある用=実用性を叶え、
その生命の輝きが美を放つ。さらに丁寧に磨きをかけることで、その美をさらに際立たせる。
─ 用から美が出ずば、真の美でなし
─ 美が用に交わらずば、真の用でなし
民藝運動の提唱者、柳宗悦が説いた「用の美」の本質を、この「型枠魂」は秘めている。